Superb Garbages 2

千野純一(chinorin)のはてなダイアリーの続きです。

5月2日は新生Lenovoの誕生日。こんな情勢だけれども、いい製品を作ってね。……とか言ってる間に、ナムコバンダイになってしまった。両者とも任天堂と仲が良いのが俺的に救いではあるが……老舗の職人的メーカが軒並みどんどん昔の影を薄くしていくなあ。もうほんとに陳腐な表現で申し訳ないが、時間は残酷だ。横井軍平も死んだし。(何年前の話をしているのやら)


夜を徹して悶々としていたが、早朝急にアクセルがかかるのを感じ、詳細プロットをがががががっと全部じゃないけど書いた。リハビリ終了と言ったところか。昼前に就寝。
夕方、暗くなった頃に起床。夢などを全く覚えていず、時間の経過を感じさせない良い睡眠だった(この時点で少しいい予感がした)。この仕事に関する最後の素材を受け取り、それを組み込むシナリオプログラムをやっているところでふと、色々な思考が俺の頭の中で爆発した。

  • シナリオというものは「これから具体的製作を始めるにあたり、全ての具体的作業のお手本になるもの」を指す。たとえばアニメでは、絵コンテや台本の元になるものだ。観客はシナリオを見ない(見られない)し、製作方針によっては末端の製作者がシナリオを読む必要もないかもしれない。
  • 絵が全て上がっている今、なぜシナリオを書く必要があるのか。シナリオを見せる相手は、もう存在しない。強いて挙げるなら、これからシナリオプログラムを組む自分だけだ。大規模な製作ならともかく、既に設計の終わった小規模製作において、シナリオは無用の長物といえる。
  • つまり、今から俺が書くべきなのは[文章|台詞]ではない。最終的に観客が鑑賞する[画面|アプリケーション|文章|台詞|演出]を書くのだ。強いて言うなら「台本」と呼ぶべきか。
  • なるほど、これがディレクタの仕事だ。実際にコンピュータの画面を前にする観客をシミュレートし、その感情をコントロールすることだ。
  • それなら俺にもできそうだ。……いや、この仕事こそ俺の天職だと確信する。これで一生食っていくという具体的なビジョンを想像できるくらいだ。

思い返せば過去作品の製作中にも、何らかの理由で「シナリオを途中で切り上げ、残りの台詞と文章はシナリオプログラムと一緒に書く」という局面に至った途端、製作が極端にスムーズに進むようになった、という経験が少なからずある。これからも様々な局面があるだろうから「もう二度とシナリオは書かない」などとは言わないが、少なくともこういう製作では「シナリオ」を書くのはできるだけ避けよう。乱暴に言うなら、シナリオプログラムを書くついでに台詞と文章をちょろっと入れる、ぐらいの感覚で。効率や適性だけの問題ではなく、その方が観客の視点を鑑みた良いものができる可能性が高い、という点が重要だ。さっそく、自分のクレジットから脚本という項目を削除した。(日本人は形から入る)